なぜ人は生まれてくるのか。人生の意味は?を自分なりに考察してみた。

人が生まれてくる理由

人間誰しも一度は「なぜ人は生まれてくるのだろう?」「自分が生まれた意味は?」などと考えたことがあるのではないだろうか。

命の意味。

僕は人生の意味について、幼い頃から次のように考えていた。

どこかに別世界のようなものがあって、そこで罪を犯した者達が、この世でその刑を全うすべく送りこまれてくるのだ。と。

その者達はこの世で、人間であったり動物であったり虫であったり樹木であったり、色々な形で生(命)を与えられる。

それが僕らなのだ。

だから僕らは泣きながら生まれてくるのだ、と。

だからそもそも人生とは辛く悲しいものなのだ、と。

※本稿には『人生』という表現が使われていますが、人間だけでなく、動物や植物の生涯も含みます。

この考え方は危険かもしれない。

でも、そうだとしたら説明がつかないだろうか。

この人生というものは、牢獄における刑期と同義になのだ。だから多くの人や動物にとって、生きるということは辛くしんどく、思い通りにならないことばかりなのだ。と。

では、なぜ人は自らその生涯を終えようとしないのか。

僕の考察通り、もし人生が受刑と同義なのだとしたら、なぜ人や動物は自らその刑期を縮めようと(死のうと)しないのか。

その答えは簡単だ。

そんなことをしてしまうと、刑期中に罪を償う者がいなくなってしまうからだ。投獄された意味が無くなってしまうだろう。

それを防ぐため、神様なのか、宇宙なのか、別世界の裁判官なのかが与えたのものが・・・

喜び

楽しみ

死への恐怖

そして愛

なのではないだろうか。

だから人は死ぬことに恐怖を感じ、生に執着し、「人生も悪くない」と思い込もうとするのではないだろうか。

僕はそう思う。

こんなことを言うと、生み育ててもらった母にも申し訳ないから、私生活では誰にも話したことはないが・・・。

僕は、幼少の頃からそう考えていた。

人生が刑期だと考える根拠

他にも根拠はある。

人生は刑期だからこそ、人は泣きながら生まれるのに、死ぬ時は安らかに逝くのだ。※事故死や病死を除く。

長生きし、そのお務めを全うした人(お年寄りなど)は、少しずつ死への恐怖が薄れ、希望や楽しみは減り、現世への未練が薄れてゆくようにできている。

これも『人生が刑期』と思う根拠の一つだ。

若い人が亡くなると多くの人が悲しむ一方、高齢者の場合多くの人が「大往生でした」と悲しいながらも「おつかれさま」という気持ちで送り出す。

すべて納得がいくのではないだろうか。

では、僕は早く刑期を終わらせるための行動(自死)を起こす!?

ここまで話した僕の人生観。

それでは、僕は早く死んでさっさとこの刑期を終わらせようと考えているのか。

いや、それは考えていない。

少なくとも今のところは。

僕の人生もにも楽しいことが少なからずあった。

母をはじめ、他人からの愛情を感じることもあった。

そして、なにより最大の理由は、

この考えに確信が持てない、のだ。

確信が持てないから、死ぬのが怖い。

死後どうなるのか。

多くはないが悲しむ人もいるだろう。

まだ楽しいことがあるかもしれない、という希望があったり。

50年以上生きてきて、もうそれほど楽しいことも起こらなくなった僕の人生でも、もしかすると・・・

などと考え、今も必死に生きています。

あとがき

本稿、あくまで僕一個人の見解です。

自殺を推奨するものでも、人生が絶望的なものだと言っているものでもありません。正しくご理解いただきますようお願い申し上げます。

よくある啓発書のように「死ぬな!生きていれば必ずいいこともある!」など、上っ面なことを言うつもりはありません。

しかし実のところ、これまでの僕の人生はすごく楽しいものだったと言えます。

仮に本稿の『人生は刑期』という考え方が正しいとするなら、僕は、その刑期を縮めようと考えるのではなく、天命を受け宇宙から「あなたは充分に罪を償いました。おつかれさまです。」と言われるまで、この人生を全うしようと考えています。

あなたにもそうであってほしいと願います。



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